オタクを巡る、マルキ・ド・サドのジレンマ

サド侯爵の生涯 (中公文庫)

サド侯爵の生涯 (中公文庫)

サド侯爵はフランスの人である。丁度フランス革命前後に人生を送った。


ある時、彼は逮捕された。
如何せん品行に問題ありまくりだった彼は、当時の旧体制が作った法律的に違法なプレイをやったりしていたので
罪に問われてしまったわけだ。


結局彼は嫁さんの実家がもみ消してくれたこともあり無罪となったが、
如何せん品行に問題のある人だったので実家的にも大変迷惑な人物であり、
「無罪の囚人を牢獄から解放するための許可を請求しない」という手で長期にわたり囚人生活を送ることになった。
自由も権利もへったくれもない、絶対王政化の出来事である。


そして革命が起き、サドは狂気に満ちたその生活から解放された。
しばらくはそれなりの成功を得ていたものの、世はギロチンによる反革命者粛清祭り只中。
そもそも出自が貴族であるサドも例外ではなく、危うく難を逃れる始末であり、
挫折したサドはその後「狂人」かつ変態小説家としての一生を送ることになる。

マルキ・ド・サドのジレンマ

サドの作品は、多く題材を旧体制の貴族の悪趣味に取っている。
例えば「ソドム120日」なんかは典型例で、趣味の悪い貴族達が猥談を聞きながら、
わざわざ集めた若い男女を嘗め尽くしいたぶり虐殺していく物語である。
でも、これは狂気に満ちた王政下の出来事ですから、という言い訳が出来ている。
彼自身の放蕩三昧も、貴族であるという保障の下に成り立っているものだった。


彼を虐げ、牢獄にまでつないだあの旧体制こそが、サドという悪趣味な人間を成立させていた。
その矛盾が彼を小説という、閉じた表現の世界の住人たらしめた。
現実レベルで言えば、精神病院の一患者としての生活をもたらすに至った。


このように、自由を奪い、偏見をもたらし、迫害を加えるその対象こそが、
実はその人間のアイデンティティを成立させているというジレンマを、
僕は「マルキ・ド・サドのジレンマ」と呼びたい。

オタクとサドのジレンマ

そして多くの人間は、対象を失うまでそのジレンマに気がつけない。
気がつくときには、人間として既に手遅れな状態になっていることさえある。


殊に僕らオタクは一般人の偏見や迫害を語りたがり、理解を求めたがるものだが、
自分達よりはるかにコミニュケーション能力も経済能力も人的リソースも豊富な彼らが、
(そして往々にして、オタクよりも他人の快不快について無関心なことも多い)
庭としている領域に立ち入ってきたらどうなるか。


正にサドを襲った自我の崩壊と同様の違和感と苦痛を味わい、
そしてまた自分達が「かつてそこにいたオタクたち」を同じように駆逐していたことを感じるのではないか。
最近は、そんな風に思っている。
そして、実際そういう風に感じている。

終わりに

サド侯爵は精神病院で最期を迎え、その著書を焼き自らの存在を忘れるよう遺言を残した。
自分の作り出した閉じた世界の住人として生きることを望んだ。
が、意に反して作品は現存し、後に原初のシュールレアリストとして超現実主義者の賞賛を集めることになる。


残された僕らは、この分厚いジレンマを見つめながら、どう生きるかを問われている。
まだそれに気がついていない人々にどう接するかが問われている。
そして、ジレンマを抱えない人々に駆逐される日がやがて来る現実とどう向き合うかが問われている。